REVIEW
平岡希望(劇評家)
『しかし、逃げるかわりに、おれは靴のなかで足の指をヒョコヒョコ動かし始めたのだ。』
これは、ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ(1904-69)の小説『フェルディドゥルケ』からの一節で(平凡社ライブラリー,p.88。以下、『フェルディドゥルケ』からの引用についてはページ数のみ示す)、「三十という避けようもないルビコンの川を越え」(p.11)た主人公のユージョは、「文学博士、教授、正確に言うと、学校教師、クラクフ出身の文化的知識人」(p.31)のピンコに半ば誘拐される形で、「校庭では、十から二十ぐらいまでの子供に中供が、バターかチーズに中身はきまった弁当のサンドイッチをかじりかじり、ぐるぐる歩き回って」(p.42)いる学校へと幽閉される。そこから、下宿先の女学生に恋をしたり、級友と作男を探しに出かけたりと、ユージョは学校を離れはするが、作中に何度も登場する“おちり(おしり)”という言葉、その引力からは逃れられない。
『ヴィルヘルム・マイスター』や『ジャン・クリストフ』など、教養小説(ビルディングスロマン)の主人公たちが遍歴の果てにある境地へ達するのとは異なり、ユージョはいつまでも“青臭い”ままだ。この小説は様々な“つら”を持っている、「アンチ・ビルディングスロマン」という“つら”もまた、その一面なのだろう。
舞台上は、そんな学校の縮図だ。サブテレニアンの墨色の床にはオレンジのパンチカーペットが敷き詰められ、下手やや後方には学習机と椅子が一組置かれている。下手袖から出てきた大美穂が、「いとしいサマン、ぼくはふたたびきみにむかって書く。初めてぼくは死者にむかって詩を送る。」と虚空に語りかけ始め、「君はこれを明日、空の上で」の一節とともに、机の角へ左手を添える(『フランシス・ジャム詩集』岩波文庫,pp.103-107 『第一の悲歌』)。
詩が進むにつれ、大も上手へと移動する。そして「ぼくは君を思う。ぼくはぼくを思う。ぼくは神を思う。」と額づくのは便器だ。舞台上手、やや前方には真っ白な便器があって、墓標のように屹立した蓋が、奥の壁の方へと影を落としている。
その間にも、下手袖からは俳優四人が登場して、ゆったりと机の前方へ歩み寄る赤松由美を追い抜くように、坂本麻里絵と瀬乃乙女が壁にそって素早く上手へ移動する。葉月結子は這い寄るように着席し、机に右足を載せる。
「俺はなにかを始めなければならないのだ!」(p.25)と、大が続けざまにユージョの台詞を語り始める。
赤井康弘(サイマル演劇団)構成・演出の『フェルディドゥルケ』には、“数多のテクストを引用した、キメラのような作品”と赤井自身が形容するように、北園克衛(1902-78)とロラン・バルト(1915-80)を筆頭に、十五以上のテクストと楽曲が引用されている。だからこそ俳優たちはいくつもの役を演じる、“つら”をその都度取り替える。そんな中で、ユージョ(=大)と、ピンコ(=赤松)だけが繰り返し登場し、かつ、舞台上で名前が呼ばれる(ユージョはピンコによって、ピンコはピンコ自身によって)。バルト(=坂本)も劇中二度登場するが、舞台上で名乗りを上げない、ただその“エクリチュール”によって、自らを仄めかすのみだ。
「不愉快な小役人のことを忘れること、」(p.25)のあたりで脇腹を押さえ、便器に座ったユージョは、決意を表明し終えた後もなお苦悶していて、他の四名が、
娘さん、どうするつもり?
父なし子をこしらえて
(ビューヒナー『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』岩波文庫,pp.76-77。文献と台本とで翻訳が異なっており、当該引用は台本による。『ヴォイツェク』からの引用については、以下も同様)
と、“はすっぱに”歌っている間も、そこからなめらかに移行したピンコと校長(=葉月)のシーンでも、自身の入学の算段をする二人を眺めながら、ユージョは座ったまま、腹部に手を当てている。
“冷や汗”を垂らすユージョに“ハンカチ”を渡して介抱するのは瀬乃だが、彼女も坂本も、校長、ピンコ、ユージョが話す「校長室」(p.69)には本来ならばいないはずだ。このシーンに限らず、上演時間約六十五分の間、俳優五名は舞台に立ち続け、袖に“はける”ことはない。「おちり、おちり、おちり万歳ですな。」(同)と、両の十指を広げ、左右の親指を合わせて“おちり”ポーズをとる校長の声が反響していくように、上手奥の瀬乃と、下手前の坂本が“おちり”をこちらに向けている。
そして、ユージョが瀬乃からしがみつくように受け取り、額を拭っているのはハンカチではなく“国旗”だ。舞台中央のバトンからは放射状に紐が五本広がっており、正面奥の壁そして上手の壁にもゴム紐が渡されている。そこに、百枚近い旗が万国旗風に吊るされており、瀬乃は正面奥、ちょうど真ん中あたりから、赤と青で塗り分けられ、中央に白い小さな“窓”が開いている国旗を毟り取る。坂本も、上手の壁から一枚取ってユージョに渡すが、手書きの風合い色濃いそれらが、現実の国旗でないことはすぐに見て取れるだろう。俳優たちが、稽古の合間に描きためたものだ。
稽古の当初は、実際の国旗が使われていた。しかし諸事情によって変更を余儀なくされ、赤井と俳優五名は架空国旗の自作を選んだ。まずはデザインを持ち寄り、B5ほどに切り分けた薄布にマスキングテープを貼る、そして淡い色から塗っては乾かし、この工程を色の数だけ繰り返す(その後、梨地テープで旗自体を補強する)。国旗には、元ある国の理念・文化・歴史を象徴し、内外にそれらを示威する役割があるだろう、だとすれば架空の国旗を作ることは、まだ存在しない国の“つら”を、先に描いてしまうようなものかもしれない。そもそも、これらを国旗だと認識すること自体に、国旗・万国旗というフォーマットが刷り込まれている。
しかしそれらは、ようやく立ち上がったユージョによって便器へと流されてしまう。机の上にもすでに数枚、取り外された“国旗”が重ねられていて、国旗らしい扱いを受けない“国旗”は、もはや国旗ではない、六十五分の間に、ただの色のついた布へと還元されていく。
それは、「ただもう少しお静かに。このことをそんな大声でふれまわることはありませんからな。」(p.72)と舞台中央で顔を見合わせる校長とピンコの奥から現れた坂本の、
白い四角
という緑
の立体
黒い円筒
という
紫
の平面
(『北園克衛詩集(現代詩文庫 1023)』思潮社,pp.86-87『ある種のバガテル』)
の、即物的な響きにも通ずるだろう。坂本は、「白い四角/という/緑の立体」…と朗誦していくが、これは、「白い四角という緑の立体」を文節で区切った時と近しい。北園の詩は全編にわたって引用されるが、次に登場した
青い円筒
は
黒い
風であった
白い三角
は
紫
の雨であった
(『同』pp.87-88『白のゲシタルト』)
では、葉月によって「青い円筒/は/黒い/風であった」と表記に即した発話がなされた。北園による表記、そしてそれに準じた葉月の発話は、日常の文法、その支配からは明らかに逸脱したものだ。しかしそれは別の法則・理念に基づいているのであって、無軌道では決してない。
赤井は、稽古中何度か「舞台上では、完璧に自分の身体をコントロールしなければならない」と発言していた。だからこの舞台上で起こるあらゆることは、たとえばヴォイツェク(=瀬乃)と医者(=赤松)の一幕(『ヴォイツェク』,pp.85-88)で、医者が、「二グロッシェン!」(グロッシェンは貨幣単位。一兵卒のヴォイツェクは、“実験動物”として医者からも手当を貰っている)と言いながら“くしゃみ”をすることも含め、すべてコントロールされている。
くしゃみの研究のため窓を開けた医者は、立小便しているヴォイツェクを発見し、「わしが証明したじゃないか膀胱括約筋が随意筋だちゅうことは?」と詰るが、「恋する惑星『アナタ』に連れて行かれたみたいね」(冨岡愛『恋する惑星「アナタ」』,2024)から始まったこの舞台は、
「ぼくは君の死を嘆くまい。」(『第一の悲歌』)
「文化おばさんや村娘を愛することから手を引くこと」(p.25)
「娘さん、どうするつもり?父なし子をこしらえて」(『ヴォイツェク』)
「先生、よく注意して御覧ください、ひどいやぶにらみでしょう!」(p.70)
「どもりなうえに、涙腺の調整がまるできかなくなっているのですな。」(p.71)
「毒キノコが、先生。ほら、いっぱい生えてるんですよ」(『ヴォイツェク』)
といった具合に、“膀胱括約筋”の締め付けをかいくぐる、性・愛・死・幻覚・身体的特徴…に彩られている。そして、上演時間のおよそ四分の三が過ぎた頃には、
てめえのソックスを嗅ぎやがれ
おさらばするんだ
げっぷ、嘔吐、暴食、糞
うちら喜んでレズビアンになる!
(プッシー・ライオット『セクシストを殺れ』)
と、便器に腰かけた大が、マイクに向かって呪詛のように吐き出す。そのケーブルは便器の中から伸びており、床にはこれまで流されていた“国旗”が大量に溢れている、トイレが“詰まった”のだ。
「だまってトイレをつまらせろ」という言葉は、政治学者である栗原康の『はたらかないで、たらふく食べたい 増補版』(ちくま文庫,p.197)からの引用だが、栗原は、思想家・船本州治の議論に触れている。そこで挙げられている例が、“ケチな経営者によって、チリ紙の完備されていない水洗トイレ”で、①交渉、②暴動に次ぐ第三の選択肢として提示されているのが「新聞紙等の固い紙でトイレをつまらせる」ことだ、そしてこれがもっとも効果的で、階級を揺るがす手立てであると船本=栗原は述べる。手の中で丸め、狙いすまし、鞭のように叩きつけた“国旗”は、固いチリ紙として確実に便器を詰まらせていた。
ママは監獄に生きてる
監獄で、クソみたいに便器を掃除
と、大の噛み殺すようなその声はしかし、学習机の天板下から伸びるマイクに叫ぶ葉月の、
いづこより凍れる雷のラムララム だむだむララム ラウララムラム
(『岡井隆歌集(現代詩文庫 502』思潮社,p.20)
によって、そして「だむだむララム ラウララムラム!」と斉唱する赤松、坂本、瀬乃の声によってかき消されんばかりだ。私はここでエクトル・ベルリオーズ(1803-1869)の幻想交響曲第五楽章『サバトの夜の夢』(または『ワルプルギスの夜の夢』)を想起したが、立ち込める霧のようなヴァイオリンの刻みから、コントラバスの旋律がぬっと現れて始まる魔女の宴のように、畳みかけられる五・七・五・七・七の厳格なリズムも、“魔女”たちの“がなり声”によってひずんでいる(「擾乱は常群れとして映れども/ユーラシアふかくふかくうたがふ」の下の句が、“ユーラっシア~ふっかく~ふっかく~うったがう~”となったように)。宴は、これまでアップにしていた髪を振り乱しながら叫ぶ赤松の
ひるすぎの光によごれとぶ白のとばざる白にましてかなしき
(岡井隆『歌集 ウランと白鳥』短歌研究社,p.186)
を最後に終息する、それまで流れていた『セクシストを殺れ』も鳴りやむ。
便器の中から、机の中から伸びるマイクは、しかし初登場ではない。すでに二度にわたるバルト(=坂本)とリスタ(=瀬乃。ジャン・リスタは1943年生まれの編集者、作家。1971年にバルトと対談し、フランス・キュルチュールで放送された。『ロラン・バルト著作集8 断章としての身体 1971-1974』みすず書房,p91およびpp.215-236)の舌戦において使用されていた。便器から素早くマイクを取ったバルトはケーブルを華麗に捌きながら、“リスタ”に「だから、これはある選択、あるラディカルな選択にしたがっていて、それはわたし自身が言説の上告に身を置くということだ。」(『同』p.79。当該箇所は作家であり文芸ジャーナリストのジル・ラプージュによるインタビューだが、台本ではリスタに改変されている)と言って詰め寄る。
そして、「あなたのいう詩とは、おそらく書く快楽にほかならず、それこそが読む快楽を保証しているのだろう。そうした快楽に向かわねばならないことをわたしは確信しているが、知識人、教師あるいは責任あるエッセイストであるというただそれだけの条件によって、たえずそれから遠ざけられてもいる。」(『同』,p.84)という言葉を延長すれば、赤井は“編む快楽”を追求する“アンソロジスト(編纂者)”なのだろう。
そもそも「アンソロジー(anthology)」は古代ギリシャ語のanthologiaに由来するらしく、分解すれば「花 (anthos)」を「集める(logia)」だ。「詞華集」という訳語もある。
一方で、“花を集める”という語感がもたらすナイーブな印象は、赤井には似つかわしくない。これは想像でしかないが、引用した十五以上のテクスト・楽曲について、赤井が賛同していたり、感銘を受けていたり、好きだったりするわけではないだろう。台本を構成するパーツとしてふさわしい機能を有していたからという理由で選び、構築していたとするならば、その姿勢は、言葉の意味ではなく形態に着目し、視覚表現へと近接した北園克衛、および「白い少女」という一語を十四列×六行連ねた春山行夫のコンクリート・ポエトリーなどに通ずる。
逆に言えば、引用された言葉、その周りにこそ、何か真に迫るものがあるかもしれない。
「つまり間テクスト性だ。あなたの作品にはまとまった一連の引用が出てくる。たんなる読者としてのわたしは、ジュール・ヴェルヌや古典的な作家たちが何度も通り過ぎるのを目にする…言葉の古典的な意味でもっとも偉大な『詩的』伝統のすべてを、しかも味わい深いやりかたで受け継ぐいくつもの節、文言、詩句がある。ここでもおそらく、そうしたことは揶揄の精神においてなされているのだろう。」(『同』,p.229)
これはバルトが、リスタの『湾への侵入』について語った言葉だが、おそらく観客が舞台『フェルディドゥルケ』に対して抱く印象と近いのではないだろうか。ここを赤井は引用しなかったが、典拠を当たれば、引用部分との間に埋もれている。
雅楽においては「残楽三返」という奏法があり、文字通り三回繰り返すその一返目は全員による演奏、そこから二返、三返と奏者を減らし、三返目の最後には筝だけが残る。
赤井が近年取り組んでいる、“数多のテクストを引用した、キメラのような作品”とは、残楽三返の二返目、三返目のようなものかもしれない、引用文献はいわば一返目であり、五十年、あるいは百年前から鳴り続けている。だから観客は、望めばその“音”を聴きに行くことができる。赤井が引用を多用する理由は、台本を閉じたものではなく、多孔質な、開かれたものにするためなのかもしれない。
そう考えると、俳優の動きは対照的だ。稽古場の赤井は、演技に対する示唆こそすれ、指示は本当にしない。ト書きすらないから、俳優たちは自身の解釈・創意によって動くことが求められ、必然的に様々な発想が試みられては、演出家によって、或いは俳優当人によって棄却されていった。本番で繰り広げられるのは、そうして厳しく精査された、コントロールされた身体の流れで、そこから稽古における試行錯誤を想像することは難しいだろう。
しかし、例えば、坂本はある稽古の時、吊るされた万国旗(その時はまだ“本物”だった)に手を伸ばすと、ウインドチャイムを鳴らすように端から端まで撫でた。その所作は二回ほどで消えてしまったが、たしかにひととき存在して、観客には、引用されていない引用を、演じられていない演技を見ることまで求められていた。
「テクストの快楽を得るには時間がかかり、ときには大きな苦労もともなう。」(『ロラン・バルト著作集8 断章としての身体 1971-1974』,p.84)とあるように、しかしそこには“観る快楽”があった。
「たちまちからみ合いの渦が老教師をのみこんでしまった」(p.325)
「おばさんは早くもごったがえす渦のなかにのみこまれていた!」(p.468)
ここで出てくる「からみ合いの渦」「ごったがえす渦」はどちらも人の塊で、文字通り、肉団子みたいにくんずほぐれつ取っ組み合っているシーンだ。
舞台上でも、便器のそばに倒れこんだ葉月、その“おちり”に取りつくように赤松が横たわる。同じく、舞台中央の学習椅子に座っていた瀬乃も、台詞を言い終えると倒れる、左手の指先が、座面の端に掛かっている。便器のそばで痙攣していた坂本は、上手の壁にぶつかると、“国旗”であふれんばかりの便器を覆い隠すように、“からみ合いの渦”へと合流する。
チリ紙のないトイレにおいて、新聞紙がただの(固い)紙へと還元されるように、“国旗”はただのカラフルな布と化した。登場人物=俳優たちも、“つら”の剥がれた、ただのふくらはぎ、ただのおしり、ただの身体となった。
「そして、現実は少しずつ夢の世界に変わっていった。今はおれに夢を見させてくれ、夢を!」(p.91)と言い捨てて、ユージョはひとり立ち去る。“つら”も“おちり”もつけたまま。
観客も“おちり”を上げて、席を立たなければならない。
舞台を夢だとすれば、目覚めた観客には、明恵上人が『夢記』として生涯夢を記録し続けたように、記す、語る、考える…という“責務”が課せられる。しかし、「知識人、教師あるいは責任あるエッセイスト」(『ロラン・バルト著作集8 断章としての身体 1971-1974』,p.84)ではない、青い“おちり”を持った私たちにとって、それらは責務というよりむしろ快楽だろう。
「反対に、自分の未熟を知っているからこそ筆をとる―自分が形式を持たないことを、山をのぼってはいるが、頂はまだきわめていないことを、仕事をしてはいるがしとげてはいないことを心得ているからこそ、ものを書くのだ」(p.147)
新野守広(ドイツ演劇研究)
心地よい散乱と集中を体験した。
狭い会場の天井には模造万国旗が張りめぐらされ、床には机と便器が置かれている。そこに、それぞれ個性的な衣装を着た5人のパフォーマーが現れる(赤松由美、葉月結子、大美穂、坂本麻里絵、瀬乃乙女)。中央や右手の便器の近傍、左手の机の近傍などでは、そのときどきでペアになったパフォーマーが感情を込めて対話を行い、集中度が高まる。対話に参加しないパフォーマーは、おもいおもいの姿勢を保ってゆっくり歩いたり、壁際に佇んだりしている。客席で体験する散乱と集中は、寄せては引く波のようだった。
5人全員が歌を歌いながら行進したり、他のパフォーマーの背中をつかんで列を作ったりして、集団的な動きが生まれることもあるが、基本的に各自の動きは自律している。メトロノームの音やサックス、チェロの録音演奏がスピーカーから流れるなか、極度に集中が高まるやいなや、パフォーマーたちは床に横になって眠ったように静かになり、終演となった。ほぼ1時間の充実。
公演タイトルの『フェルディデゥルケ』は、ポーランドの作家ゴンブローヴィッチが1937年に公刊した長編小説の題名であるが、この公演では、小説の前半のごく一部の対話だけが使われたにすぎなかった。しかも、『フェルディデゥルケ』以外にも、さまざまな言葉をパフォーマーは語り出す。その出典元は、当日配布物によれば、『第一の悲歌』(フランシス・ジャム)、『ヴォイツェク』(ゲオルク・ビュヒナー)、『断章としての身体』(ロラン・バルト)、……など、かなりの数になる。とはいえ、開演前に配布物を熟読してこのリストを発見し、そこに記載された作家と作品を頭に入れた上で、準備万端、開演を待つのは容易ではない。むしろ多くの観客は、自分が知っている作家や作品の名前を見つけて少し安心しつつ、不安と期待の入り混じった気持ちで開演を待ったのではないだろうか。
つまり、この舞台がどのように体験されるかは、観客一人ひとりに応じて異なるのだ。既知の言葉やテキストが聞こえてきたり、この言葉はきっと××の詩に違いないと想像する瞬間があったり、未知の言葉でもパフォーマーの所作と一体となってすっと心に入る瞬間があったりすると、目の前で繰り広げられているパフォーマンスはにわかに集中度を増す。一方、聞こえてくる言葉とパフォーマンスの関係がしっくりこないまま手探りの状態が続くこともあるが、そうしたときでも視る者の意識は宙刷りになったまま、再び集中が高まるきっかけを待ち続け、緊張が途切れることはない。
舞台で使われた言葉は、それぞれ特定の時代と地域に由来していた。言葉の背後には、その言葉が生み出された時代背景や歴史経験が存在している。たとえばシラーの手紙に言及するゲーテの言葉が語りだされる場面があったが、ここではヴァイマル公国の宰相を務めた国民的文学者ゲーテの歴史経験を感じ取ることも可能だ。一方、ビュヒナーの『ヴォイツェク』は、貴族や高位の宗教者、富裕層以外の名もなき生活者が初めて主人公となった戯曲である。ゲーテとは真逆の社会階層の経験が、エンドウ豆を食べるヴォイツェクの言葉に反映している。テキストの題名と内容の関係を対話を通じて考察するロラン・バルトは、テキストの脱構築という考え方に結実する第二次世界大戦の歴史経験を背負っている。そのバルトが脱構築を提唱する際に依拠したのは、異化効果を提唱した戦間期のブレヒトのナチスに対する経験だった。こうしてゲーテ、ビュヒナー、ブレヒト、バルトの言葉は時を超えて反射しあう。さらに他の言葉同士も、その出自となる歴史経験において、なんらかのつながりがあることを感得することは可能だ。劇中、赤松由美が紅テントゆかりのジョン・シルバーの歌を唄う場面もあったが、1970年代の歴史経験を召喚する彼女の歌は、先ごろ亡くなった唐十郎をしのばせた。こうした舞台全体を包括するのは、構成・演出を担当した赤井康弘の歴史経験であることは言うまでもない。
長らく歴史から消し去られていたポーランドは、第一次世界大戦後、国民国家として再び歴史の舞台に立つことができた。当然、愛国主義的風潮は強まったが、ゴンブローヴィッチの『フェルディデゥルケ』はグロテスクな風刺と破天荒な描写で当時のポーランド愛国主義を笑っている。サイマル演劇団+コニエレニの舞台はゴンブローヴィッチの破天荒にならい、さまざまな時代と地域に起因する多様なテキストを使って歴史経験のいわば乱反射を作り出した。この散乱と集中の場が新たな歴史経験を開く萌芽となることを祈りたい。
新野守広(ドイツ演劇研究)
心地よい散乱と集中を体験した。
狭い会場の天井には模造万国旗が張りめぐらされ、床には机と便器が置かれている。そこに、それぞれ個性的な衣装を着た5人のパフォーマーが現れる(赤松由美、葉月結子、大美穂、坂本麻里絵、瀬乃乙女)。中央や右手の便器の近傍、左手の机の近傍などでは、そのときどきでペアになったパフォーマーが感情を込めて対話を行い、集中度が高まる。対話に参加しないパフォーマーは、おもいおもいの姿勢を保ってゆっくり歩いたり、壁際に佇んだりしている。客席で体験する散乱と集中は、寄せては引く波のようだった。
5人全員が歌を歌いながら行進したり、他のパフォーマーの背中をつかんで列を作ったりして、集団的な動きが生まれることもあるが、基本的に各自の動きは自律している。メトロノームの音やサックス、チェロの録音演奏がスピーカーから流れるなか、極度に集中が高まるやいなや、パフォーマーたちは床に横になって眠ったように静かになり、終演となった。ほぼ1時間の充実。
公演タイトルの『フェルディデゥルケ』は、ポーランドの作家ゴンブローヴィッチが1937年に公刊した長編小説の題名であるが、この公演では、小説の前半のごく一部の対話だけが使われたにすぎなかった。しかも、『フェルディデゥルケ』以外にも、さまざまな言葉をパフォーマーは語り出す。その出典元は、当日配布物によれば、『第一の悲歌』(フランシス・ジャム)、『ヴォイツェク』(ゲオルク・ビュヒナー)、『断章としての身体』(ロラン・バルト)、……など、かなりの数になる。とはいえ、開演前に配布物を熟読してこのリストを発見し、そこに記載された作家と作品を頭に入れた上で、準備万端、開演を待つのは容易ではない。むしろ多くの観客は、自分が知っている作家や作品の名前を見つけて少し安心しつつ、不安と期待の入り混じった気持ちで開演を待ったのではないだろうか。
つまり、この舞台がどのように体験されるかは、観客一人ひとりに応じて異なるのだ。既知の言葉やテキストが聞こえてきたり、この言葉はきっと××の詩に違いないと想像する瞬間があったり、未知の言葉でもパフォーマーの所作と一体となってすっと心に入る瞬間があったりすると、目の前で繰り広げられているパフォーマンスはにわかに集中度を増す。一方、聞こえてくる言葉とパフォーマンスの関係がしっくりこないまま手探りの状態が続くこともあるが、そうしたときでも視る者の意識は宙刷りになったまま、再び集中が高まるきっかけを待ち続け、緊張が途切れることはない。
舞台で使われた言葉は、それぞれ特定の時代と地域に由来していた。言葉の背後には、その言葉が生み出された時代背景や歴史経験が存在している。たとえばシラーの手紙に言及するゲーテの言葉が語りだされる場面があったが、ここではヴァイマル公国の宰相を務めた国民的文学者ゲーテの歴史経験を感じ取ることも可能だ。一方、ビュヒナーの『ヴォイツェク』は、貴族や高位の宗教者、富裕層以外の名もなき生活者が初めて主人公となった戯曲である。ゲーテとは真逆の社会階層の経験が、エンドウ豆を食べるヴォイツェクの言葉に反映している。テキストの題名と内容の関係を対話を通じて考察するロラン・バルトは、テキストの脱構築という考え方に結実する第二次世界大戦の歴史経験を背負っている。そのバルトが脱構築を提唱する際に依拠したのは、異化効果を提唱した戦間期のブレヒトのナチスに対する経験だった。こうしてゲーテ、ビュヒナー、ブレヒト、バルトの言葉は時を超えて反射しあう。さらに他の言葉同士も、その出自となる歴史経験において、なんらかのつながりがあることを感得することは可能だ。劇中、赤松由美が紅テントゆかりのジョン・シルバーの歌を唄う場面もあったが、1970年代の歴史経験を召喚する彼女の歌は、先ごろ亡くなった唐十郎をしのばせた。こうした舞台全体を包括するのは、構成・演出を担当した赤井康弘の歴史経験であることは言うまでもない。
長らく歴史から消し去られていたポーランドは、第一次世界大戦後、国民国家として再び歴史の舞台に立つことができた。当然、愛国主義的風潮は強まったが、ゴンブローヴィッチの『フェルディデゥルケ』はグロテスクな風刺と破天荒な描写で当時のポーランド愛国主義を笑っている。サイマル演劇団+コニエレニの舞台はゴンブローヴィッチの破天荒にならい、さまざまな時代と地域に起因する多様なテキストを使って歴史経験のいわば乱反射を作り出した。この散乱と集中の場が新たな歴史経験を開く萌芽となることを祈りたい。
痛みなく暮らすには不都合で、自由に生きるには不可欠
(ライター/平岡希望)
昨年の11月から今年(2024年)の2月にわたって、サブテレニアンでは、物故作家をテーマにした “古典だらけの演劇祭” 「板橋ビューネ2023/2024」が開催されていて、韓国・議政府(ウィジョンブ)からは「劇団HURY」が来日した。「HURY」というのは「腰」の意らしいが(発音的には「ホリー」と聴こえた)、この日のサブテレニアンも、受付から奥を望めば少しだけ縦長な空間、そのちょうど “腰” のあたりに立った金網フェンスが天井まで届いていて、手前の客席側と向こうの舞台側を隔てている。
金網と、向かい合う客席との間は、ひとりならともかく、ふたりがすれ違うなら互いに身体をひねり合わないと通れないほどだから、最前列、真ん中の席に座ると金網が迫りくるようだ。そして、中央の席、といっても右隣が通路になっているのは客席が左右に二分されているからで、舞台側を上(すなわち客席側を下)として俯瞰すれば、“左腕” のやや長いT字に動線が走っている(縦棒はそのまま受付~出入口へと接続している)。
その縦棒をさかのぼるように、ロングコートをはためかせながら(その裾が当たりそうだ)観客の間を縫って現れた、赤いネクタイにスーツ、黒光りする革靴で固めた、チョ・サンウ演ずる男は「アンニョンハセヨ」と観客に挨拶をするが、ここからすでに色々と入り組んでいる。
というのも、これから演じられる『マラー/サド』、正式には『マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺』は、そのタイトル通り、フランスの革命指導者であったジャン=ポール・マラーが、シャルロット・コルデーに刺殺された1793年7月13日の史実を、そのちょうど15年後の1808年7月13日に、サド侯爵が、自身も収監されている、シャラントン精神病院の患者たちを使って上演する…という設定の劇中劇で、観客自身も、病院へ駆けつけた【観客】を否応なく演じさせられることになる。
さらに、今回の『マラー/サド』は、「劇団HURY」を率い、自らも【マルキ・ド・サド】を演ずるユ・ジュンシクによって翻案されていて、舞台は2024年の韓国国立精神療養病院に移されている。だから私たちは東京・サブテレニアンに「劇団HURY」の『マラー/サド』を見に来た観客でありながら、ソウル近郊の当該病院、そこで毎年行われる公演に訪れた “物見高い” 【観客】でもある。そして前述の通り、ひとたび幕が上がればここはフランス・パリの精神病院でもあり、目の前の、韓国国立精神療養病院の所長が、『マラー/サド』に登場する【クールミエ】、シャラントン精神病院の所長となる時も近い。
フェンス中央、同じく金網製の扉は舞台側から客席側へと開け放たれていたが、【クールミエ】に促され、通路からぞろぞろと現れた患者たちがひとり、またひとりと収まっていき、最後に入った付き添いの【看護尼】(イ・インギュ)の手で南京錠が下ろされた(錠を見下ろすそのまなざしは冷たい)後は、客席の【観客】と【クールミエ】、そして舞台上の9人とは分断される。
そこからは、ジュン・テジュン演ずる「半ば民衆、半ば道化」の【ポルポシュ】、床から本人の首下あたりまである長い杖を持ち、赤と青の二股の帽子を被り、化粧で唇と両目をグロテスクなまでに強調した男が登場人物を紹介していく。
まず紹介されるのは【ジャン=ポール・マラー】(イ・キョンミン)で、入場するや否や、ジャック=ルイ・ダヴィッドの《マラーの死》よろしく、舞台中央からやや下手側に寄ったあたりの浴槽に浸かっている。たすきがけにしたタオルから覗く肩口には赤い斑点がいくつも浮かんでおり、「実在のマラー同様、皮膚病の患者がキャスティングされた」と【ポルポシュ】は言う。さらに、「パラノイアでもある」と続けたように、【マラー】は浴槽にもたれかかり、両腕をその縁に載せ堂々とこちらを見据えているが、険しく猜疑的な目をしている。
…という具合に、各人は、自らの配役と病状を行き来するように行動していて、【マラー】の伴侶である【シモンヌ・エブラール】(キム・ジキョン)は、常にかいがいしく彼のタオルを変えてやり、嗜眠症の患者が演ずる【シャルロット・コルデー】(ユ・ヒーリー)は、入場直後こそ不安そうに周りを見回しているが、すぐに立ったまま寝てしまって身体を支えるのは【デュペレ】(イ・デグワン)だ、しかし彼は「色情狂の気がある」からすぐに彼女の髪の匂いを嗅ぎ始める。そんな【デュペレ】や他の登場人物たちに対して、度々ちょっかいを出すのは無邪気な【ロッシニョール】(キム・ヒジュン)で、【ポルポシュ】同様、彼女も「半ば民衆、半ば道化」だからお揃いの二股帽子を着けている。かつ、道化役の患者ふたりは、元々(三流酒場の)歌手でもあったから、この舞台でもバリトンとソプラノとして歌唱パートをリードしていく。
上手側、奥の角には、【マラー】が浸かっているのと同じ浴槽が寄せてあって、舞台中盤、【デュペレ】はその中へ頭から突っ込まれてびしょびしょになる(と同時に、たてがみみたいな金色長髪のカツラも取れてしまう)が、やったのは【看護尼】だ。左の腰に警棒らしきものを帯びていることからも分かるように、“彼女” は武力で患者たちを抑え込む係でもあって、“問題行動” の多い【デュペレ】はもちろん、政治犯である【ジャック・ルー】(キム・ハクジュ)は何度も制圧される。
その彼は、【マラー】が浸かる浴槽の後ろ、壁に沿って舞台中央から下手側へと伸びたL字の長椅子、その角に座って一点をみつめており、「あまりに過激なセリフが多いのでほぼカットされた」という【ポルポシュ】の言葉通り、多くの時間をその場にただ座って過ごしているが、突如立ち上がっては火がついたように何か(韓国語だから中身は分からない、しかし【クールミエ】と【看護尼】の間で忙しなく交わされるアイコンタクトから、明らかに何か不都合な訴えであることは察せられる)を叫び、【看護尼】に羽交い絞めにされ元の位置に座らされる。たやすく抑え込まれてしまうのは、【ジャック・ルー】が灰色の拘束衣を着せられているからで、胸の前にまっすぐ伸ばした腕の先から、床まで届くほど長い両袖が背中で結び合わされてミイラみたいだ。
上手側、金網に接するように置かれた木箱は【サド】の特等席で、脚本家であり演出家である彼(を演ずるユ・ジュンシク自身、この『マラー/サド』の演出家である)は、台本と思しきものを開きながら舞台の顛末を眺めており、その対角線には、唯一、客席側へと残った【クールミエ】が、下手側、金網間近のパイプ椅子で足を組み、目を光らせている(舞台上で不穏な動きが起こると両手を膝に置いて身を乗り出す、そして【看護尼】を一瞥する)。
しかし当然、舞台上を一番見ているのは【観客】で、これが映画や文学なら死角が生まれる(裏を返せば、そうした死角の背後でも物事が進行し続けている、と思わせるのが技術のひとつなのだろう)、というより大抵の舞台でも場面転換があるけれど、この舞台ではそれがない。
だから、文字通り俳優たちは125分の上演時間中、絶え間ない演技を強いられていて、すなわち立ち上がった【マラー】が声高に何かを訴えるその裏でも、傍らで身を屈めた【シモンヌ】は心配そうに彼を見上げ、【ジャック・ルー】も、浴槽の後ろから身動ぎひとつせずそれを聞いているが、次の瞬間 “爆発” するのではないか、と警戒する【看護尼】は腰の警棒を一撫でし、【クールミエ】は、舞台上手、その奥でサイコロ遊びを始めた道化ふたりと【デュペレ】を、(押し隠しつつも)苦々しそうに見ている、【サド】は時折、台本から顔を上げては満足そうに笑みを浮かべ、長椅子では【コルデー】が出番になってもまだ寝ている…という情報の洪水は、【観客】にとっても大変だが愉悦でもある。
そう考えると、所長である【クールミエ】を、武力の担い手である【看護尼】を、あの【サド】を差し置いてもっとも加虐的なのは【観客】で、しかもそれが、 “受動的な加虐性” とでも言うべきものであるのは、あたかも【看護尼】が、患者たちの “不適切な” 振舞いのせいで暴力を振るわなければならないのと近しい。もちろん、“病気” を理由に拘束され、金網に近づくだけで羽交い絞めにされる患者たちこそ不自由だが、かと言って【看護尼】も、【クールミエ】も、【観客】も自由なわけではなく、正反対の不自由に囚われている。
そんな中、やはりひときわ “自由” なのは【サド】で、【デュペレ】が、【ジャック・ルー】が、再三【看護尼】による制止(の皮をかぶった暴力)を受けるのに対し彼は一度も受けない。しかし、だから自由というわけではない。
実務的なファッションの【クールミエ】に対し、【サド】侯爵は貴族的な装いで、先端が細く尖った黒い靴を履き、茶色のズボンは膝のあたりで留められているようだが、そこから覗く足は白いタイツで覆われている。首からはレースの胸当て(「ジャボ」と言うらしい)を垂らし、同じくレースの長袖シャツを着ているが、その優雅なシャツを脱ぎ、ズボンから引き抜いたベルトを【コルデー】に渡すと、彼女の前に跪く。そして【観客】の方をまっすぐ見やりながら、自らの背中をその “鞭” で叩くよう【コルデー】に促し、おずおずと彼女は従う。
何度も鞭打たれ、思わず倒れたその背中には “X” の跡が残っていて、それは唯一【サド】だけが、自らの意思で暴力を受けることのできた、自律的な存在である証明のようだ。
…と、見ているその時は思った。しかし、気づいてみればこれは翻案された『マラー/サド』であり、原作では、脚本家・演出家であるサド侯爵が、【サド】としても劇中に登場している設定だが、今回の【サド】はサド本人ではない、「キム博士」だ。
彼は、韓国の名門、ソ・ヨンゴ大学で文学教授を務めていたが、風紀を乱す書籍を出版し続けたかどで何度も収監され、「コリアン・サド」の異名を持っている。
登場人物たちはその「キム博士」によって、原作キャラクターとの類似ゆえにキャスティングされた患者たちだが、その彼にしたって、サドに似ているから「コリアン・サド」と呼ばれ、そして【サド】をやっているに過ぎない。
そして、「キム博士」がいくら演出・脚色を施したと言っても、戯曲『マラー/サド』はペーター・ヴァイスによって1960年代に著されたものであり、そこにはすでに、【サド】が【コルデー】に鞭打たせるシーンが書き込まれている(『マラーの迫害と暗殺』内垣啓一/岩淵達治・訳,白水社,p.111-119)。だから「キム博士」は、原作【サド】を(もしかすると実在のサドも)内在化し、その上で戯曲の展開を追認しただけで、鞭打つよう命令され、それに従った【コルデー】と大差はないのだろう。
加えて、身も蓋もないがこれはお芝居で、【サド】は鞭打たれるものの、【コルデー】が本当に彼の背を打つわけはなく、ベルトは床に向かって叩きつけられる(それでも音としては強烈だ)。この時の、鞭打たれる【サド】のシーンは、(精神病院で行われている)劇中劇としても虚構のはずだし、『マラー/サド』を上演する上でも虚構だ。
対して【看護尼】による暴行は、劇中劇のレベルでは本当のことだし、【デュペレ】が突っ込まれた浴槽から本当に水しぶきが上がり、サブテレニアンの床を濡らしたように、ある瞬間、『マラー/サド』を上演するレベルにおいても(言うまでもなく演出だけれど)“暴力” が顔を覗かせる。
それは、あたかも鞭で裂けた、あるいは爪で掻き壊した肌から鮮血が噴き出したかのようだ。そうした “傷口” は、【看護尼】を返り討ちにした患者たちが、赤い閃光と共に鳴り響く警報アラームの中、フェンスに近づき、鍵を打ち破り(諦めた【クールミエ】は【観客】を置いて通路を走り去る)、扉を開けた(直前には暗転していて、軋みと気配だけが伝わる)その瞬間に最も大きく口を開け、【観客】も【クールミエ】も(おそらく)呑み込まれた。そこにはもはや傍観の “特権” はない。
扉の軋みが響いた瞬間、私たちは「シャラントン精神病院の【観客】」という “皮” を剥がれ、直後、再び灯ったライトによって「韓国国立精神療養病院の【観客】」という皮も奪われサブテレニアンの観客に戻る。そしてここを去れば、「サブテレニアンの観客」ですらなくなる。
しかし、外に出れば即座に別の皮を被される、あるいは自ら進んで着込むはずで、それは良い/悪いを超えて避けがたい。ただ、一度でも皮を脱いだ経験は、たとえそれが “虚構” の中の出来事だとしても、“現実” の皮も実は剥がせるのではないか?それも自力でできるのではないか?そもそも現実とは何なのか…?という疑問に繋がりうる。きっと、痛みなく暮らすには不都合だろうが、自由に生きるには不可欠なはずで、舞台を見ることは、ある種のショック療法なのだろう。
朝から降っていた雨はいつの間にか止んだようだが、地面はまだ潤んでいて、擦り剥いたばかりの肌みたいだ。
赤井版『青い鳥』を観て(メーテルリンク研究/穴澤万里子)
メーテルリンク研究者として国内外で様々な『青い鳥』を観てきたが、多くの場合はお決まりの、古臭くてお堅い子供向け演劇である。子供向け演劇ならば(だからこそ)もっと想像力を働かせて、メーテルリンクも驚くような世界が作れないものか。子供は大人も考えられないような自由で豊かな発想を持った、実はあなどれない、手ごわい観客ではないのか? 大体、この作品は子供の為、と決めつけるのはいかがなものか?
と訝しく思っているところに出会ったのが赤井版『青い鳥』であった。アフタートークで赤井氏は「メーテルリンクの『青い鳥』じゃない、と叱られてしまうのではないかと緊張していた」と言われたが、確かにこの作品は、実は長い『青い鳥』の幾つかのシーンのみであり、さらに作家の詩や、旅や夢を感じさせる他の作家の書簡や作品を取り込んだコラージュであるから『青い鳥』ではない。だが不思議なことにメーテルリンクの意図した世界は再現されていた。まずお決まりの子供向け演劇ではない事。次いで偶然か否か、登場人物像が正しく分析されていた。優しい、短い言葉で紡がれるメーテルリンクの劇世界は雰囲気で捉えられて、登場人物像は正しく再現されないことが多い。ウラジーミル・ジャンケレヴィッチの言うところの「泡の様な」女たちは、一見すると皆、か弱くて儚い。しかし彼女たちは強い。ひたむきに生きる、実は強い女たちなのである。『青い鳥』のミチルも同様である。素直で素朴なチルチルと違って、ミチルはなかなか強い気性である。その為か、弟が3人、妹が4人死んでしまったという二人兄妹のうち、妹のミチルには死の影が見えない。そんなミチルを赤松由美は体現していたと思う。客入れの時点から舞台上にいるミチル・赤松が既にミチルの立ち位置、つまり生きている我々に近い立ち位置を示している。チルチル役の渡邊清楓はその爽やかな風貌と身体で、素直で繊細なチルチルを表現していた。葉月結子はその卓越した身体表現で、明確に夜の女王と光を演じ分けてみせた。アフタートークで俳優の身体表現について聞かれた(聞いたのは明治学院の学生であった)赤井氏は、俳優の動きは各俳優に委ねていると語ったが、それならば今回の出演者たちは皆、登場人物像を十分に読み解いていたことになろう。
「日常の悲劇」や「大きな不動の真実」を描こうとしたメーテルリンクの劇世界は、基本ハッピーエンドではない。『青い鳥』も然り。手に入れたと思った瞬間、青い鳥は逃げてしまう。その曖昧な(あえて「象徴的」と言う言葉は使いたくない。それは本人が望まなかったし、純粋に象徴主義といえる作品は、実は初期の8作品しかないからである。『青い鳥』はこの中には入らない)、しかし実にリアルで深淵な世界は、演出家泣かせである。赤井版『青い鳥』にはこの世界が確かに宿っていた。
『青い鳥』-言葉の森を手探りで進む旅-(ドイツ演劇研究/新野守広)
1.「キメラのような作品を上演します」
サブテレニアンから配信された「ほぼ月刊サブテレニアン」12月号に、次回公演『青い鳥』のお知らせが載っていた。「メーテルリンクの原作を核に、ランボーやベンヤミン等のテキストを組み込んで、キメラのような作品を上演します」とのこと。
ベルギー生まれのメーテルリンクは、パリで象徴主義の影響を受けて詩作を始めた。夭折したランボーの詩を読む機会が当時の彼にあったかどうか、私にはわからないが、二人とも19世紀後半に活動を始めた若き詩人たちの系譜に属している。
この系譜は、20世紀前半にナチスの手で破壊された。メーテルリンクはアメリカに亡命することができたが、ドイツ系ユダヤ人であったベンヤミンはピレネー山脈を越える際に自殺した。
そこで今回の公演は、19世紀後半から20世紀前半のヨーロッパの光と影をテーマとする興味深い舞台になるにちがいないと思った。ただ、『青い鳥』とランボー、ベンヤミンをどのように組み込んで「キメラのような」舞台を作るのか、想像もつかなかった。演出の赤井氏からはトークを依頼され、初日の数日前には上演台本も送られてきたが、新鮮な気持ちで舞台を見るために『青い鳥』のみ読み直して劇場に向った。
2. 組み合わされるテキスト
ほぼ1時間の公演だった。舞台には四人の女優が登場する。四人の分担は、演技空間を使って『青い鳥』を演ずる三人(赤松由美、葉月結子、渡邊清楓)と、空間の右奥に立ち、タイプライターを打ちながら、さまざまなテキストを朗読する一人(大美穂)にほぼ分かれていた。『青い鳥』を軸に、関連する数々のテキストを組み合わせて、メーテルリンクの世界を観客の想像力に向けて開く意図なのだろうと思った。
ただ、『青い鳥』を演じる三人の女優が『青い鳥』以外のテキストを語り出すこともあるので、全体的に複雑である。当日配布されたチラシに記載されたテキスト一覧を頼りに、俳優たちの動きを目で追いながら、語り出される言葉に耳を澄ましたが、『青い鳥』と他のテキストが時々刻々入れ替わるため、集中力が必要だった。
例えば、開演前後の冒頭の場面を思い出してみると、客席からみて左手手前に鳥かごが置かれ、中央に一人の俳優が衣装にくるまって開演前から横たわっている(赤松由美、ただし顔は見えない)。時を刻む時計の音が響く中、黒い衣装の女性(葉月結子)、半ズボンをはいた女性(渡邊清楓)、革製の古いスーツケースを手に持ちグレーのスーツを着た女性(大美穂)が左手からゆっくり入ってくる。
メロディアスなヴァイオリン曲が聞こえてくると、半ズボンをはいた女性が観客の目の前に躍り出て紙を撒き、訴えるような仕草で詩を語る(彼女が撒いた紙には、その詩が印刷されていた。ロルカの「水に傷つけられた子供」であるという)。
音楽がピアノ曲に変わると、スーツを着た女性が右手奥の台の上に置かれたタイプライターのキーを立ったまま叩き、『青い鳥』とは別のテキストを語り出す。その内容は手紙の書き手がベルリンに残した弟の安否を気遣うもので、ベンヤミンの手紙だろうと見当がついた。ベンヤミンはヒトラーが政権を掌握する前年にドイツを離れ、地中海のイビサ島に滞在していたことを思い出した。さらに、子どもについて書かれた詩(*)が語られた後、戯曲『青い鳥』の冒頭の場面が始まる。
半ズボンをはいた女性(渡邊)がチルチルになる。床に横たわっていた女性(赤松)が立ち上がってミチルになる。貧しい二人が窓際に身を寄せ合い、お金持ちの子どもたちがクリスマスを楽しく祝っているのを窓越しに見る『青い鳥』冒頭の場面。二人の女優は観客のすぐ目の前に立ち、客席をのぞき込むように台詞を語る。
ここで再びメロディアスなヴァイオリン曲が流れ、赤松がゆっくりと舞台を歩く。右手奥でタイプライターを打つ女性は、この場を説明するかのように、「紛れもなくグラディーヴァであった。……」と語り出す。このテキストはヴァイオリン曲とともに何度か繰り返されるので、グラディーヴァという女性の名前は赤松の歩く所作とともに印象に残った(テキストはヴィルヘルム・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』1903年)。
3. 言葉の森を手探りで進む旅人
こうして、「子ども」「水」「亡命」、さらには「夢」「自殺」といった主題を伝えるさまざまなテキストが語られ、その一部は演じられる中、『青い鳥』の物語は進行する。どの言葉がどの引用元に由来するのか、その場で理解するのは難しい。『青い鳥』とともに、作者不明の多数のテキストが代わるがわる挟み込まれるのを体験しているうちに、言葉の森の中を進むような感覚が生まれてくる。
四人の女優の演技が多様であるのも、森の印象を強めている。ミチルを演じる赤松由美は、古代ローマ人を思わせる衣装を身にまとい、グラディーヴァとして振る舞う場面で堂々とした存在感を発揮する。チルチルを演じる渡邊清楓は熱意が際立つ。黒い衣装で登場した葉月結子は、妖女、夜、を演じた後に白い衣装に着替えて光と隣りの娘を演じ、『青い鳥』の進行を担う。腰を落とした姿勢とゆるやかに動く手が印象的だ。タイプライターを打ちながらテキストを語る大美穂は、いわば『青い鳥』の外に立ち、さまざまなテキストを演技空間に投げ入れる声の役割を果たしている。
こうした多様性を演出の赤井氏はキュビスム的な作風と名付けている。たしかに、さまざまな角度から対象を観察したときの複数の像を同一の画面で表現するキュビスム絵画を連想させる作風だが、舞台は絵画とは異なり、時々刻々動いている。静的な二次元の素材が目の前にあり、それが鑑賞者の心に動的な動きを喚起させるキュビスム絵画とは受容の仕方がやや異なるだろう。舞台の場合は、場面が代われば、俳優の振る舞いや発せられた言葉は目の前から失われ、取り戻せない。けれどもその印象は観客の心の中で蓄積され、舞台を見る現在時に呼び戻され、舞台上の出来事と共振する。そこに演劇の喜びがある(と私は思う)。
さまざまなテキストが演技空間に投げ込まれる赤井演出『青い鳥』では、観客は言葉の森に迷い込むかもしれない(私自身、何度も迷った)。そうしたとき、繰り返し聞こえてくるヴァイオリン曲(ウラディーミル・ヴァヴィロフの『カッチーニのアヴェ・マリア』)が情感を高め、聞き取った言葉のモチーフと俳優たちの振る舞いともに、旅の向かう方角を指し示し、道しるべとなった。時を刻む時計の音がつねに聞こえていたのも、旅のモチーフを高める効果があったと思う。
4. 旅の終わり
チルチルとミチルとともに言葉の森を巡る旅は終わりに近づく。『青い鳥』の最後の場面が演じられ、逃げた青い鳥を見つけたら自分たちに返して欲しいと、チルチルが観客に訴える。すると、『カッチーニのアヴェ・マリア』がふたたび流れ、死と森を主題とする印象的な詩(**)が朗誦された後、「グラディーヴァ」が感情をこめて語られる。最後に大美穂がフランス語で台詞を語り終えると、時を刻む時計の音が響く中、四人は左手に去り、公演は終了した。フランス語はほんの少ししかできない私だが、「アントレ(entrez)」(入りなさい)が繰り返されるのを耳にして、旅を終えたチルチルとミチルを「光」が自宅に戻す『青い鳥』の場面の台詞であることがわかった。
こうして旅が終わり、公演も終わる。演出家の読書体験に裏打ちされ、そこから抽出された、言葉の森への旅。言葉とともに俳優のたたずまいとふるまい、そして声、音楽、照明が、観客の想像力の中で、それぞれが経験してきた人生や読書に応じて、積み重なる。帰宅して上演台本に目を通すと、おもに20世紀前半にヨーロッパと日本で活躍した詩人たちの言葉から作られた舞台であることがわかったが、イスラエルのガザ侵攻のニュースに日々感情を掻き立てられる今の私にとって、遠い世界であるとは思えなかった。
舞台と観客の多面的な交感を求める、いわばユートピア的な相互交流への思いを、赤井演出から感じとった。
上演台本によると、(*)はランボーの「孤児たちのお年玉」、(**)はメーテルリンクの「三の歌」と「十四の歌」。
以下は当日配布チラシに記されていたテキストである。
『青い鳥』モーリス・メーテルリンク(堀口大学訳)
「孤児たちのお年玉」アルチュール・ランボー
「タイプライタア」竹中郁
「舌」北川冬彦
「磁場」アンドレ・ブルトン、フィリップ・スーポー
「この道、一方通行」『ベンヤミン-ショーレム往復書簡』ヴァルター・ベンヤミン
「水に傷つけられた子供」「枯れたオレンジの木のシャンソン」「お月さんのロマンス」ガルシア・ロルカ
『グラディーヴァ』ヴィルヘルム・イェンゼン
「三の歌」「十四の歌」モーリス・メーテルリンク
「あなたたちの心の中の良い明るい考えの中にも、いつもわたしがいて、あなたたちに話しかけているのだということを忘れないでくださいね。」(ライター/平岡希望)
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サブテレニアン (Subterranean) という名の通り、階段を下りていくと平土間式の、出入口から見れば少し奥に長い、壁も床も墨色の空間があって、向かって左が舞台、右には客席の雛壇が2段並んでいるが、この12月1日20時の回では、一段目の足元にさらにマットが敷かれて桟敷席となっており、私はその一番奥に座った。
舞台に向きなおれば、中央には布を掛けられた何かがごろんと置かれていて、“山頂” がほんの少し下手へ寄ったゆるやかな稜線をさらに下りていくと、薔薇?のあしらわれた花笠みたいなものがはみ出している、どうやらその下に顔が、布の下には身体が隠されていて、上手に足先を向けて横たわっているらしいが (後にミチル=赤松由美だったとわかる)、今は死んだように動かない。“山肌” はほぼ真上からの、暗褐色、昼白色、紫、黄色…と移ろう灯りで染められていて、腹部から足先にかけてこごった翳りもその濃度を変えていく。
ミチルの奥の壁には、小さな丸い卓面と長い一本足を持った錫色のテーブル (ハイテーブルとか、バーテーブルとか言うのだろうか) が2台、人ひとり立てそうなくらいの間隔で並んでいるが、その上に置かれたものはここからだとよく見えない、真白の布が載っているらしい舞台中央寄りのものはまだしも、その上手側のもう1台に置かれた四角い?ものは、暗がりに沈んでわからない。
そこからさらに上手には、墨色の床が一部そのまま隆起したような四角い台が斜めに、奥の角と三角を描くように配されていて、上にはタイプライターが、文字盤をその奥の角に向けて置かれている。
角から上手の壁へ、首を1時から2時へと回すと、そこからは2本の赤い紐が流れ落ちており、さっきから目に入っていたが床には一面赤い紐が這っている、紐は、流暢な筆跡みたいに流れているがところどころ書き損じたように丸まっていて、丸められたと言えば、首を3時へ、ほぼ真横へ向けたその先にはまたハイテーブルが、雛壇1段目に迫るくらい近くにあって、その上には書き損じた紙の玉が盛られている…と思ったが白い花だった。
そこから9時の方向、一気に下手側を見ると同じくテーブルがあって、その上には鳥かごが載せられている、上からは青い光が当たっていて、4つのハイテーブル (上の品々) とタイプライターはすべて同様に青く照らされている、鳥かごの奥の出入口を見やると1本の赤い紐はその向こうまで続いていて、もう1本は傍らの本棚から天井へと至り、水面に映った虹みたいにひっくり返った放物線をふたつ描いている。
開演前からずっと、「カッチ、カッチ…」という時を刻むような音が響いていて、“…surprise my joy…knowing my heart…” みたいな落ち着いた女性の声も流れていた、それが英語らしいことはなんとか聞き取れるものの、何を言っているかは語学に疎くわからない、開演が迫るとその声は止む、時の音はそのまま続く。
声が止み、アンビエント風の響きが鳴り始めた…と思ったらすぐにそれも止んでヴァイオリンの叙情的な旋律が流れ、そこに「ポロン、ポロン、…」とピアノが伴奏する、とすぐに出入り口に下ろされた黒いカーテンが翻ってチルチル=渡邊清楓が、抱えもった紙束をベージュのシャツ、そのふっくらとした長袖を振りつつ上手へ下手へ機敏に撒きつつ、しかしゆっくりと、爪先から下ろすように歩むその足は白い足袋に包まれ、茶色い、コーデュロイっぽい吊り半ズボンから伸びている。左胸には青い花のようなものがあしらわれている。
原作の『青い鳥』(堀口大學・訳,新潮文庫) には「衣装」の頁があって (p.8-9)、チルチルは「ペローの童話に出てくる『親指小僧』の服装。(後略)」、ミチルは「『グレーテル』または『赤ずきん』の服装。(訳注を省略)」…といった調子に、例えば「大きな喜びたち」みたいな役をひとまとめとすれば、20 弱の登場人物の服装が形容されていて、そこには複数の先行作品が引用されている。
しかし、例えばペローの『親指小僧』にしたって、主人公である「親指小僧」の服装については、白い小石を詰められるポケットがあること (『完訳 ペロー童話集』,岩波文庫,p.242) や、途中で「人食い鬼」から奪った「七里の長靴」を履くことぐらいしか言及されていない (同,p.253)、『赤ずきんちゃん』にしたって、ペロー版では「小さな赤ずきん」(同,p.176)、グリム版の『赤ずきん』では「赤びろうどの頭巾」(『完訳 グリム童話集 1』,岩波文庫,p.267) となっているがそれ以上はわからない。
文章でないのなら、挿絵なのかもしれない。手元の『完訳 ペロー童話集』を開いてみると各話に白黒の扉絵が付されていて、『親指小僧』では「人食い鬼」から靴を奪う「親指小僧」が、チョッキと半ズボンと思しき姿で描かれている、『赤ずきんちゃん』はおなじみのベッド脇の一幕で、ふっくらとした簡素なドレスあるいはワンピースを着ているが、頭巾はヘアバンドみたいだ。
原作『青い鳥』に戻れば、今回は登場しなかったものの、「とうさんチル、かあさんチル、おじいさんチル、おばあさんチル」の衣装は「グリム童話などによく出てくるドイツの木こりやお百姓さんの服装。」と指示されていて、「木こり」と言えばある共通のイメージが引き出されたのだろう、『親指小僧』にしても『ヘンゼルとグレーテル』にしても、父親は木こりだ (『青い鳥』第1幕第1場が「木こりの小屋」であることから、チルチルとミチルの父親も木こりだと思われる)。しかしそこでチルチルとミチルの服装を「木こりの子ども」とせず作品の引用で説明したことは、もしかしたら、“由緒正しい” 童話のヒーロー・ヒロインの末裔であることを示したかったのかもしれない。
他にも、例えば「妖女」(舞台上にも、チルチルに次いで、妖女=葉月結子が現れていて、奥の壁にへばりつく、あるいはへたりこむように身をくねらせているが、やはり爪先から踵をゆっくり浸すみたいに黒い足袋に包まれた足を下ろす) が、「…姿の見えなくなる指輪だの、空とぶじゅうたんだのの方が~」と言っているけれど、これらも、(おそらく) 前者は「ギュゲスの指輪」(プラトン『国家 上』,岩波文庫,p.119-120) で、後者も『聖書』のソロモン王や『千夜一夜物語』などからイメージが借用されている (該当箇所を見つけられなかったけれど)、それ以上に今の私 (たち) からすると、『指輪物語』とか『アラジン』とかが思い浮かぶそれらは、童話の主人公たち同様、脈々と受け継がれてきた。
そもそも、「思い出の国」(第ニ幕第三場)や「未来の王国」(第五幕第十場) といった世界を訪れては去る原作『青い鳥』の筋立てはそれ自体、本を1冊読み終えては次の本へ読み移ることと似ている、一方、サイマル演劇団の、赤井康弘の構成・演出による『青い鳥』では、登場したチルチルが紙を撒き散らしながら「ぼくは井戸へ降りていきたい」から始まるフェデリコ・ガルシア・ロルカの『水に傷つけられた子供』を全文朗唱していて、私は『ロルカ詩集』(土曜社,p.128-129。同じく引用された『枯れたオレンジの木のシャンソン』と『お月さんのロマンス』も収録されている) を参照した。
そして『水に傷つけられた子供』は幾度も引用されて、次はチルチルとミチルの二重唱だ、その時、すでに原作で言えば第四場の終わり (第二幕第二場と同第三場は省略された) で、ミチル、チルチル、妖女の次 (すなわち最後) に現れ、足を引き摺りながらタイプライターの前に向かった、灰色の背広の男=大美穂は、辿り着くと左手に持っていた古式ゆかしい飴色のトランクケースを傍らに下ろして、そこからはずっとタイプしていた (最初の打鍵と重なるように、“ジャーン!” とピアノも鳴った)。時折、『ベンヤミン-ショーレム往復書簡』や『グラディーヴァ』(ヴィルヘルム・イェンゼン著) の一節が「男」の口から洩れるものの、その時も “几帳面な” 打鍵は止まず、改行を知らせるベルと、それに応えてスライドしたキャリッジの音も加わる。
しかし、「あの鳥、取られなかったかい?」と、妖女から変じた「夜」が舞台下手の鳥かご、その上に満月のごとく照るライト (その直前にも「夜」は、ロルカの『お月さんのロマンス』を “月” に向かってつぶやいていた) の方へ問いかけると、「大丈夫。あそこの月の光の上の方にいますよ。あんまり高いところにいたから、手が届かなかったものとみえますね。」と応じた男はこの瞬間は「ネコ」だった、ネコは原作『青い鳥』でずっとチルチル・ミチルの旅に同道するが、保身のために裏切っている。
この一言の間止まっていた手はすぐさまタイプを再開し、男は、「声が次第に鳴り止むと、」から始まる別の一節を引用して (『グラディーヴァ/妄想と夢』,平凡社ライブラリー,p.76)、「『その白いお花はわたしのために持ってきてくれたの?』」と、主人公であるノルベルト・ハーノルトに語り掛ける “グラディーヴァ” を、男でもネコでもない声色で一瞬出現させたかと思うと、すぐさまチルチルとミチルの「ぼくは井戸に降りていきたい…」が始まる。
「白い霜の冠をつけて」「なんという白い死だろう」と、 “白” のイメージが木霊する中で「夜」は舞台中央へと赴いて、錫色の (「かたい錫の乳房…」と『お月さんのロマンス』でも歌われている) ハイテーブルに載った真白の布に手をかける、それは白いレースのワンピースで、黒いファーが付いた上着を脱ぎ、頭から被ってしまうとすっかり「夜」は「光」となるが、「なんという光の曠野」というチルチル・ミチルの朗唱がその登場を予言していた。
『水に傷つけられた子供』はまだ続いているが、
「苦しみは」
「絡み合った」
「雨」
…とだんだんずれていってそれこそ雨つぶのようだ、『水に傷つけられた子供』は、チルチルとミチルが「光」と別れた後 (原作,第六場第十一場「お別れ」) の、引用が連続するその中にみたび差し挟まれるが、これまでのような全文ではなく最終連だけだった。
このように、サイマル演劇団版『青い鳥』では複数のテキストが引用されて、ロルカの詩のようにまるまる挿入されるものもあれば、同じ詩でもアルチュール・ランボー『孤児たちのお年玉』は「1」だけだし (『ランボー全詩集』,ちくま文庫,p.19-26) 、竹中郁の『タイプライタア』も第1連だけだ (原著が見つからなかったので https://www.youtube.com/watch?v=WsBPcMNo5TQ で朗読を聞いた)。
そもそも他のテキストは書簡だったり小説だったりとより長いから当然一部分しか引用されなくて (というより引用とはそういうものだろう)、原作『青い鳥』が、本を1冊1冊通読していく動きに似ているならば、サイマル版『青い鳥』は本をつまみ読みしていくこと、それも1冊の (台) 本を書くために文献を当たるその営み自体が反映されているようで、告知文では「キメラ」と形容されているけれど、伝説上のキメラが、「〔Chimera=ギリシャ神話の、ライオンの頭、ヤギの胴、ヘビの尾を有し、口から火を吐く獣、キマイラ (ギ Khimaira)」(『新明解国語辞典 第7版』,p.354) で、パーツ毎バラバラにしてしまえば “キメラらしさ” が失われるだろうことを踏まえると、むしろここでのキメラは「接ぎ木キメラ」により近しいかもしれない。
『新明解』の説明は、「から〕二つ以上の異なる遺伝子型を有する生物体。突然変異・接ぎ木・肝移植などによって生じる。」と、神話発祥の概念から生物学、医学へと接続されたことに続いていって、「接ぎ木をしたあと、その癒着面で切り直し、そこから再生してきた芽を育てると、キメラが生まれる」(日本植物生理学会『キメラについて』,2023年12月5日閲覧,https://jspp.org/hiroba/q_and_a/detail.html?id=465&key=&target=) )らしいが、こうして生まれたものを接ぎ木キメラと呼ぶようだ。
だからと言って、ただ原作『青い鳥』と他のテキストを合わせただけでは (接ぎ木) キメラにはならないはずで、やはりそこには俳優の身体が “癒着面” として存在し、そして中でも “キメラ的” だったのはミチルだった。そもそもミチルは、原作では「グレーテル」あるいは「赤ずきん」のイメージが付与されているけれど、サイマル版『青い鳥』では明らかに姿も声も大人の女性で、失礼な言い方だが冒頭の、顔を隠して、布をかぶって寝そべったままミチルと会話する姿は、むしろ『赤ずきん』で狼が、おばあさんを演じているシーンにも似ている。
しかし、「鎧戸をごらんよ」とチルチルに布を剥がされ起床したミチルの服装は、薄くクリームがかったリネン風のワンピースで、左胸から右の太ももあたりを通って、左の肩甲骨あたりへとゆるく回された黄金色のショール?は金糸で縁取られており、ワンピースの裾も同じく金糸で縫い取られている。
そしてそこに “青い鳥の羽根” が、“ショール” と同じく左胸から始まり、右から左へ腰を抜けてまた左胸へと戻ってぐるっと巻き付いていて、もちろん細部は違うものの、雰囲気としては「近くで見ると彼女の白い服は、かろやかに黄色に傾きながらさらに暖色の色合を高めていた。繊細な、極上にやわらかい毛織物地でできているのがはっきり分かる。たっぷりしたプリーツはそのせいである。頭に巻きつけているスカーフも同じ生地だった。その下に、頸(うなじ)のあたりにまたしても、無造作に一束にたばねた茶色の髪の一部がのぞいてきらめいている。首の前のところ、優美なおとがいの下で、小さな金属の留めピンが衣装を前合わせにまとめていた。」(『グラディーヴァ/妄想と夢』,p.64-65) と描写された “グラディーヴァ” に近くて、頭にはシンプルなヘッドドレスを着け、たしか髪もひとつに束ねられていた、おとがいの下でもピンでもないが、円形の金具が右の鎖骨下あたりに光っておそらく “ショール” を吊っている。
“グラディーヴァ” とは、『グラディーヴァ』の視点人物であるノルベルト・ハーノルトが「ローマのさる大古美術館を見物中」に見つけた浮彫 (レリーフ) でもあり (同,p.9)、夢に見た似姿でもあり (p.17-20)、現実の街中で目撃した「まぎれもなくグラディーヴァ」(p.55) な横顔、そして思わず話しかけたノルベルトに「私の名はツォーエ」(p.83) と告げた女性でもあり、「私の部屋の窓際にはカナリアのいる鳥籠があるの。」「家には父も住んでるわ、動物学者のリヒャルト・ベルトガング教授。」という言葉で「眼がこれまでに達したことのない大きさまでに開いた」ノルベルトがようやく思い出した幼馴染のツォーエ・ベルトガング嬢でもあって (p.122)、「たっぷりしたプリーツ」 (p.64) や、「雪白のドレスの襞」(ランボー『孤児たちのお年玉』) さながらに4重5重と折り重なったイメージ、その新しい層として「ミチル」がサイマル版『青い鳥』では付与されて、“接ぎ木” されている。
そもそも原作『青い鳥』でミチルはあんまりしゃべっていなくって、例えば「この家には歌を歌う草か、青い鳥はいないかね?」と言いながら現れた妖女に「にいさんが鳥を持っているわ。」と応じていたけれど (p.25)、次に妖女と話すのは3ページ先の「それから妹も四人いたわ。」で (p.28)、その間はずっとチルチルが妖女と話している。一方でサイマル版『青い鳥』では「お隣のベルランゴーおばさんにすこうし似てるようだけど。」(p.26) を皮切りに、原作におけるチルチルのセリフをミチルが言うことが多くて、妖女が登場してから「この袋の中から、なにが出ると思うね。」と言うまでの間 (p.25-31) に原作では妖女のセリフは 28 あるが、サイマル版では「そんなことはとてもできないよ。それが悪い癖なんだよ。あそこから出ることにしよう。」が削られて前のセリフと合体しているから 27 だ (サイマル版には出てこない「思い出の国」に関するセリフも削除されているけれど、最後の「お前たち、なにをしていたんだね?」だけ残されたからセリフ数としては変わらない)。それに応ずる原作チルチルのセリフも 28 だが、サイマル版では、妖女のセリフ変更に伴って「やっぱり、あそこから出たいんだけど。」(p.27) が削除されているから総数としては 27 だ、さらにそこからミチルへと移されたセリフが前述の「お隣の~」に加えて
②「ふうん、そうなの。」、
③「あそこに寝ているよ。」、
④「やっぱり死んでしまったの。」、
⑤「そうだよ、でも食べてるところはすっかり見られるもの。」、
⑥「そんなことはないでしょう。あの人たち、お金持ちなんだもの。ねえ、向こうのうちと てもきれいでしょう。」、
⑦「このうちなんて、ずっと暗くて小さくて、それにお菓子もないのに。」
とあるから引けば 20 になる (②・③は p.27、④は p.28、⑤~⑦は p.29に該当)。反対にミチルはその 7 を、元々のセリフに足せば 9 となって、なおチルチルよりは少ないがそれでも出番は増えた。
それ以上に、原作では「魔法の帽子」を妖女から授かったのはチルチルだったけれど (p.31-32)、今回はミチルに変更されていて、薔薇?のあしらわれた花笠みたいな、最初、顔を隠していたあの帽子の “とんがり” の下によく見ると “ダイアモンド” が付いている (妖女「これが目をよく見えるようにする大ダイアモンドだよ」,p.32)、そしてなにより佇まいが印象的で、チルチルと妖女が、妖女の容姿について話しているシーンではセリフこそないけれど (p.30-31)、こちらを彫像のようにジッと見つめていたかと思えば、「つぶれてなんかいるものか」とチルチルを一喝した妖女の剣幕に驚いて兄の後ろに隠れたりと、大人の女性である “グラディーヴァ” のイメージと、幼子であるミチルのイメージを行ったり来たりしている。
『グラディーヴァ』からは、
a.「紛れもなくグラディーヴァであった~」(p.55-56)、
b.「声が次第に鳴り止むと~」(p.76)、
c.「やがてグラディーヴァ・レディヴィーヴァ・ツォエ・ベルトガングは~」(p.136)
の3か所が引用されているけれど、a・b は2回ずつ反復されるから劇中には5回登場する、しかしそれらのセリフがミチル= “グラディーヴァ” 本人の口から語られることはない。そのことは、『グラディーヴァ』が徹頭徹尾ノルベルト・ハーノルトの、「異常に活発なファンタジー」(p.26) を備えた男の視点で進み、(会話こそ交わしているものの) “グラディーヴァ” が語られる対象であることとも通ずる。
そして反復を含めた5回の引用の内、1回はチルチルの口から「紛れもなくグラディーヴァであった~」と語られるけれど、残り4回はタイプライターを打ち続けている男の口から発せられて、なおかつ引用bの中には「『お座りになりません?立っていてはくたびれるわ』」と「『その白いお花はわたしのために持ってきてくれたの?』」という “グラディーヴァ” =ツォ (ー) エのセリフが混じっているから男は “グラディーヴァ” でもありノルベルト・ハーノルトでもあり、そして作者であるヴィルヘルム・イェンゼンでもあるのだろう。
イェンゼン (=ノルベルト) が “グラディーヴァ” と呼んだ浮彫像はジークムント・フロイトによれば「ヴァティカンのキアーラモンティ博物館所蔵番号644」で、「ギリシア芸術開花期」の実在の作品らしい (『グラディーヴァ/妄想と夢』,p.273)、平凡社ライブラリー版の表紙にはこの浮彫像があしらわれているし、そもそも今回の『青い鳥』フライヤーもそうだ (私は観た後に気がついた)。
その表紙、フライヤー、あるいは検索して出てきた画像を見ればすぐ分かるように、“グラディーヴァ” 像の「左手は並はずれて襞の多い服を軽くつまみ上げて」いて (p.66)、男が、あるいはチルチルがこの部分を声にするのと同時にミチル= “グラディーヴァ” は下手側を向き、左手でかろやかなリネン風のワンピースをつまみ上げて同じ動きをするけれど、ついその左手からすぅ…と視線を下した左足、踵を上げたアーチに目が行ってしまうから、ノルベルトがはっきりと認めた、「右足が前に歩み出る動きにつれて、一瞬にもせよ、足指のつま先が踵と一緒にほぼ垂直に持ち上がる」瞬間は何度も見逃した、おそらく浮彫像に象られた一瞬も、ノルベルトが捉えた一瞬から遅れること数瞬のもののはずで (右足がもう地面に着いてしまっているから)、イェンゼン=ノルベルトにしか補足できない光景なのかもしれない。
ミチル= “グラディーヴァ” は、「紛れもなくグラディーヴァであった~左手は並はずれて襞の多い服を軽くつまみ上げて…」を男とチルチルが1回ずつ引用した時と同じく ( “グラディーヴァ” がノルベルトの幼馴染であるツォ (ー) エであることを踏まえると、ここでチルチルは少年に、幼い頃のノルベルトになっているのかもしれない) 、男が「やがてグラディーヴァ・レディヴィーヴァ・ツォエ・ベルトガングは、左手でドレスの裾を軽々と捲り上げると~」をラストの一歩手前で引用した時にも例のポーズを取っていた。
その時すでにチルチルと妖女=夜=光は退場していて、ミチル= “グラディーヴァ” も、「ハノルトの夢見るような視線に包まれながら、燦々と陽光の降り注ぐ石畳の上を、しなやかな落ち着いた足取りで街路の向こう側へ渡っていった。」という男の引用に合わせて去っていった、この時すでに男はタイプを止めて右手で鞄を持っていて、舞台中央へと進み出たがその右足は引き摺られている、それは男が、イェンゼン=ノルベルト・ハーノルト (ハノルト) でもありヴァルター・ベンヤミンでもあるからだ。
幕が上がってからの男の第一声は「僕の弟の状況は最悪のことを危惧させるものだ~」から始まる引用だった、原著に当たれなかったから定かではないが、続く
「ベルリン」、
「サン・アントニオを離れてイビサの町へ移るか、イビサの島そのものを去ることになるだろう。」、
「親愛なるゲーアハルト、これはユダヤの正月の年賀状なのだが~」
から引用文献一覧中の『ベンヤミン-ショーレム往復書簡』であると思われる、ベンヤミンはベルリンのユダヤ人家庭の生まれで、地中海のイビサ島に亡命していた、「ゲーアハルト」はゲルショム・ゲルハルト・ショーレムのことで往復書簡の相手だ (三宅晶子,“「帝国の想起」と「資本の夢」 ヴァルター・ベンヤミン『1900年頃のベルリンの幼年時代』『パサージュ論』における<想起>”,https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900117894/hikakubunka_no.2_01_23.pdf 及び『書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG』https://booklog.kinokuniya.co.jp/booklog/hase/archives/2009/06/post_2.html を2023年12月5日に閲覧)。
「僕の病気のことだが、右の脛の傷がひどく膿んでしまったのだ。」と男=ベンヤミンは (舞台上にはいない) ゲーアハルトに語りかける、その手はずっとタイプを続けていて、床に散らばった (八角形の) 紙には『水に傷つけられた子供』がタイプされたものもあれば「anohitotachikurerukashira」みたいなアルファベットが並んだものもあって、何語だろう、と思っていたらローマ字で「あの人たちくれるかしら」…というチルチルとミチルの冒頭の会話が書かれていたりした、それらの大半はチルチルが登場と共に撒き散らしたものだろうが男によってこの場で打たれたものも混ざっていたかもしれない、男は時折打ち終わったのか、紙を取り換えていた。
床に散らばった紙は俳優同様、その時々で色々な役を演じていて、ある時は「鍵」で、ある時はその鍵によって開く「扉」だった、場面は「夜の御殿」(原作の第三幕第四場に当たる)、青い鳥を探すため片っ端から大広間の扉を開けて回るチルチルに、「夜」は「気をおつけ。そこには『戦争』がはいっているんだよ…」と諭す (p.89)。
その時、舞台に居合わせた観客の頭には現在進行形の戦争がきっとよぎった。もしかすると俳優たち、スタッフ、演出家の頭にも思い浮かんでいたかもしれなくて、舞台への “引用” はテキストだけに済まされない、今お腹が空いている、今日嫌なことがあった、戦争がずっと続いている…ということは、並べるのが躊躇われるほどにかけ離れているけれどすべて舞台へと持ち込まれるはずだ、原作『青い鳥』、その第五幕第十場「未来の王国」では未来に生まれる子供たちが宮殿の大広間に控えているが (p.180)、子供たちは「みんななにかを地上に持って行かなければいけな」くて、「手ぶらで出ていくことは止められている」からみんな「毎日働いている」 (p185-p.195)。
そして「時」が来ると、子供たちはその前に列を成して集まるが生まれる番じゃない子供は追い返される、そして生まれる番の子供でも、「発明」を持ってこなかった子供は、「なにも持ってこないと?手ぶらか?ではここを通ることはならん。なにかを用意してこなけりゃいかん。大きな罪でも、病気でも、しかたがない。それはわしの知ったことじゃない。だが、なにかを持ってこなければだめだ。」と言われて生まれることはできない (p.198-199)。
サイマル版『青い鳥』に「時」は登場しない、しかしチルチルの「『時』がぼくたちを扉から追い出したのは覚えてるけど。」というセリフでは言及されているし、その前の、原作で言えば第四幕第七場「墓地」にあたる場面の終わりでもチルチルは「あ、夜中の十二時を打つところだ。」と時へ注意を促す、そして「あ、夜中の十二時を打つところだ。」と「『時』がぼくたちを扉から追い出したのは覚えてるけど。」の間に差し挟まれた引用はメーテルリンク本人の『三の歌』で、「男達は、三人の少女を殺した/彼女達の心臓の中を見るために」で始まる詩は
「三匹の蛇は、三年間も噴気音を鳴らしたそうだ」
「三匹の子羊は、三年間も身を震わせたそうだ」
「三人の大天使は、三年間も夜伽をしたそうだ」
と「三年間」を三回繰り返して、それをチルチル、ミチル= “グラディーヴァ”、「光」の三人が朗唱する。何よりここまでもずっと「カッチ、カッチ…」という時計みたいな音がしているし、これを鼓動=心臓として捉えれば、
A.「穴あけられた心臓を」(水に傷つけられた子供)
B.「お前の心臓で作るだろ」(お月さんのロマンス)
C.「ノルベルト・ハーノルトの脈動がふと停止した。」(グラディーヴァ)
D-1.「彼女達の心臓の中を見るために」(三の歌)
D-2.「一人目の娘の心臓は、幸福に満ちていた」(同)
E.「心臓がどきどきして、 その子は息をこらす。」(ベンヤミン『この道、一方通行』)
の引用も連動している、そして A,C,D-1,D-2 は2回ずつ反復されるから印象はもっと強く、「時」は、「ゆらゆらする長いひげをはやした」「かまと砂時計を持」った「老人」(原作 p.198) は、姿が見えずとも舞台に存在している。
同じ劇場に集った人と、同じ時間を過ごしている、この「劇場」の部分に「世界」を代入して、同じ世界に集った人と、同じ時間を生きていると言うこともできるはずだ、そうやって共有している世界に、「未来の王国」の子供たち同様、ひとりひとりが何かしらを持ってやってきて、それを投げかけている。4人の俳優たちにしたってそうで、それぞれに異なるセリフを、引用を持って舞台にやって来て、それを互いに差し出し合っている。そうして差し出された言葉は、例えば「紛れもなくグラディーヴァであった。」という引用が男からチルチルへ託されたように人と人の間を渡っていく、ただ見ている観客だってそうで、お腹空いた、今日嫌なことがあった、ここ面白い、さっきのなんだったんだろう…みたいなとりとめのない想念をおそらく態度として舞台に注いでいるし、舞台の外の出来事も否応なしに侵入してくる(舞台に流れる赤い紐も、“源流” を辿ればサブテレニアン外の「止まれ」標識に行き当たる)。それらは決して “邪魔なもの” ではないはずで、赤井が「数多の作家のテクストを組み込みながら上演する」(『青い鳥』フライヤーより) のは、精緻で寸分の隙もない作品を作るためというよりは、むしろ “穴だらけ” の時間を作るためなのかもしれない、そしてその “穴” から “光” がもたらされるのだろう。
「いい子だから泣かないで、わたしは水のような声は持っていないし、ただ音のしない光だけなんだけれど、でも、この世の終わりまで人間のそばについていてあげますよ。注ぎ込む月の光にも、ほほえむ星の輝きにも、上がってくる夜明けの光にも、ともされるランプの光にも、それからあなたたちの心の中の良い明るい考えの中にも、いつもわたしがいて、あなたたちに話しかけているのだということを忘れないでくださいね。(壁の後ろで八時を打つ)ほら、時計が鳴ってます。さようなら。扉が開きますよ。おはいり、おはいり、おはいり。」(送ってもらった台本より。舞台上にひとり残された男はフランス語でこのセリフを言う、これは原作『青い鳥』p.218、第六幕第十一場「お別れ」で、「光」がふたりに遺した言葉だ。)
『コスモス』観劇記/新野守広(ドイツ演劇研究者)
1.開演前
ゴンブローヴィチ原作の小説『コスモス』が舞台化された。構成・演出・美術を担当した赤井康弘はサイマル演劇団を主宰し、ギンズバーグ、島尾敏雄、イヨネスコ、カール・アインシュタイン、ハイナー・ミュラーなどの、いわゆる「知る人ぞ知る」作品を取り上げてきた。2019年にスタートした赤松由美のユニット「コニエレニ」との第一回共作では、ポーランド三大作家(シュルツ、ヴィトキェーヴィッチ、ゴンブローヴィチ)の一人ヴィトキェーヴィッチの『狂人と尼僧』が上演された。二回目となる今回の共作はゴンブローヴィチの『コスモス』である。
『ブルグント公イヴォナ』や『結婚』といった戯曲ではなく、小説を取り上げたのは興味深い。というのも『コスモス』は、通常の小説とはかなり趣きが異なるからだ。ゴンブローヴィチ自身、あるインタビューで次のように言っている。
「(…‥)『コスモス』の主題は、現実を構成するためのある意識の努力だ。その現実は、それが形成されるにつれて壊れて行く。固着したような現実を描くのは、それこそ人為的だし、恣意的なことだ。現実のイマージュは、押しよせ、そして過ぎさって行く黒い波だ。(…‥)中心のテーマは、現実を構成する主体の努力ということだ。」(工藤幸雄「異端のポーランド文学」より。恒文社『東欧の文学 コスモス』所収)。
実際『コスモス』は、作家と読者が「現実を構成するためのある意識の努力」を共有することで作品世界が立ちあがる稀有な小説であると思う。この小説は「私」の視点から語られている。友人と一緒に夏休みの間勉強のために部屋を借りた「私」は、周囲の対象のなかから、首つりになったスズメ、天井の矢印、轅、湯わかし、女性たちの唇などの細部に着目し、相互の連関を見出す努力を続ける。「私」の努力を読む読者は、小説の世界を思い描こうとする構成への意志において「私」と重なり合ううちに、未知の何かが明らかになりつつあるという瞬間を幾度も体験する。こうして、場所も時代も異なる作家といわば時空間を共有しながら、読者は「私」の探究と発見に喜びを覚える。小説という虚構に主体的に参加しつつ鼓舞される貴重な時間が持続する。
今回嬉しかったのは、小説『コスモス』のこのような特徴が舞台にふさわしい形で感じられたところにあった。とはいえ『コスモス』以外のテキストもコラージュされているので、全体の構造はつかみがたい。手探り状態での観劇には集中力が必要だった。
いずれにせよ、五人の俳優たちは小説『コスモス』の登場人物の言葉だけを発語しているわけではなさそうだ。後半では中原中也の『老いたる者をして』やベケットの『名づけえぬもの』が引用され、俳優のモノローグとして語られる。
『名づけえぬもの』が挿入的に語られる場面は、原作では登場人物全員がピクニックに出かけた山小屋の場面である。主人レオンはこの山小屋で27年前に不倫した。一度限りの不倫の成功を心の支えに実直な銀行員の父親を27年間演じ続けてきたレオンは、今すべてをひっくり返すべく、家族、同居人、知人はもとより、山小屋に来る途中で偶然出会った見知らぬ僧も引き連れて山小屋に乗り込み、過去を告白して、良き父かつ夫といういわば仮面を脱ぎ捨てる、というのが小説のあらすじである。今回の舞台ではあらすじの描写はほとんどなかったため、あらすじ的な情報は客席にほとんど伝わらなかったと思うが、そうした情報がなくても、「ベルグ、ベルグム、ベンベルグ、(…)」と謎の言葉を発しながら、27年前の秘密を自ら暴露する「レオン」の演技は見ごたえがあった。
ここまで車椅子に座って演じ続けてきた「レオン」は、両足で立ちあがり、大柄の体格を見せつつ、不倫を告白した。実直な父かつ夫という役柄をついに放棄したこの男は、ようやく自分に目覚めて崩壊したのかもしれない。
上演中舞台後方にはつねにポーランド語が投影されており、単語が映し出されるたびに上から下へ流れ落ちるように映像化されている。流れ落ちる単語の群れは「レオン」の崩壊を表しているように思えた
2.開演後
開演すると、それぞれの配役名が書かれた名札を胸にぶら下げた五人の俳優が登場する。「夫人」(赤松由美)、「カタシア」(葉月結子)、「ヴィトルト」(阿目虎南)、「青年」(竹岡直紀)、「レオン」(永守輝如)であるが、「ヴィトルト」は作家ヴィトルト・ゴンブローヴィチのことで、小説の語り手である「私」として登場しているようだ。一方、「青年」は何者なのだろう。
サティのピアノ曲「グノシエンヌ」が流れると、「青年」が「女がいる。(…)」という台詞を語り出す。この後、サティが流れるたびに「女がいる。(…)」が語られるが、そのたびに語る俳優は変わり、「(…)」の内容も変わる。観劇後に知ったが、これはハンガリーの小説家エステルハージ・ペーテルの小説『女がいる』からの引用であるという(『女がいる』は「女がいる。(…)」で始まる97章で構成された小説)。
冒頭では、「女がいる。(…)」が終わると、「カタシア」が「いらっしゃいませ」と語り出す。そう、『コスモス』は、友人フクスと一緒に夏休みの間部屋を借りた「私」の滞在先での経験を描いた小説だ。小説には大家の主人レオン、その妻クルカ、彼女の姪で事故の怪我の跡が唇に残るカタシア、レオンとクルカの娘レナ、その夫ルドヴィクが登場するのだが、名札に書かれた配役と一対一に対応する舞台上の俳優はおもに「レオン」、「夫人」(=クルカ)、「カタシア」だろうか。
いずれにせよ、五人の俳優たちは小説『コスモス』の登場人物の言葉だけを発語しているわけではなさそうだ。後半では中原中也の『老いたる者をして』やベケットの『名づけえぬもの』が引用され、俳優のモノローグとして語られる。
『名づけえぬもの』が挿入的に語られる場面は、原作では登場人物全員がピクニックに出かけた山小屋の場面である。主人レオンはこの山小屋で27年前に不倫した。一度限りの不倫の成功を心の支えに実直な銀行員の父親を27年間演じ続けてきたレオンは、今すべてをひっくり返すべく、家族、同居人、知人はもとより、山小屋に来る途中で偶然出会った見知らぬ僧も引き連れて山小屋に乗り込み、過去を告白して、良き父かつ夫といういわば仮面を脱ぎ捨てる、というのが小説のあらすじである。今回の舞台ではあらすじの描写はほとんどなかったため、あらすじ的な情報は客席にほとんど伝わらなかったと思うが、そうした情報がなくても、「ベルグ、ベルグム、ベンベルグ、(…)」と謎の言葉を発しながら、27年前の秘密を自ら暴露する「レオン」の演技は見ごたえがあった。
ここまで車椅子に座って演じ続けてきた「レオン」は、両足で立ちあがり、大柄の体格を見せつつ、不倫を告白した。実直な父かつ夫という役柄をついに放棄したこの男は、ようやく自分に目覚めて崩壊したのかもしれない。
上演中舞台後方にはつねにポーランド語が投影されており、単語が映し出されるたびに上から下へ流れ落ちるように映像化されている。流れ落ちる単語の群れは「レオン」の崩壊を表しているように思えた。
3.俳優たち
五人の俳優は、外れたイントネーションや奇妙なアクセントで文章や単語を発語しながら、ゆっくり動く。五人の動作と発声には独特のクセがあり、せりふ劇の俳優の動きではない。一人ひとりが独自の動きを極めているとともに、総体としても一つのまとまりをなし、重心の上下動や左右の動きで五人の所作がリンクすることも多い。また、指先の動きにいたるまで、五人の細かい身体の動きが相互に共振する瞬間も見逃せない。こうした俳優たちの独特な動きの連鎖を目の前にして、観客一人ひとりも、それぞれ「現実を構成するためのある意識の努力」を続けたことだろう。その努力が最終的に一つの意味に収斂することはないが、それゆえに探究と発見の喜びは尽きないと感じた。
こうして1時間強の公演中、小説とは異なる稀有な時間を体験した。
2.開演後
開演すると、それぞれの配役名が書かれた名札を胸にぶら下げた五人の俳優が登場する。「夫人」(赤松由美)、「カタシア」(葉月結子)、「ヴィトルト」(阿目虎南)、「青年」(竹岡直紀)、「レオン」(永守輝如)であるが、「ヴィトルト」は作家ヴィトルト・ゴンブローヴィチのことで、小説の語り手である「私」として登場しているようだ。一方、「青年」は何者なのだろう。
サティのピアノ曲「グノシエンヌ」が流れると、「青年」が「女がいる。(…)」という台詞を語り出す。この後、サティが流れるたびに「女がいる。(…)」が語られるが、そのたびに語る俳優は変わり、「(…)」の内容も変わる。観劇後に知ったが、これはハンガリーの小説家エステルハージ・ペーテルの小説『女がいる』からの引用であるという(『女がいる』は「女がいる。(…)」で始まる97章で構成された小説)。
冒頭では、「女がいる。(…)」が終わると、「カタシア」が「いらっしゃいませ」と語り出す。そう、『コスモス』は、友人フクスと一緒に夏休みの間部屋を借りた「私」の滞在先での経験を描いた小説だ。小説には大家の主人レオン、その妻クルカ、彼女の姪で事故の怪我の跡が唇に残るカタシア、レオンとクルカの娘レナ、その夫ルドヴィクが登場するのだが、名札に書かれた配役と一対一に対応する舞台上の俳優はおもに「レオン」、「夫人」(=クルカ)、「カタシア」だろうか。
いずれにせよ、五人の俳優たちは小説『コスモス』の登場人物の言葉だけを発語しているわけではなさそうだ。後半では中原中也の『老いたる者をして』やベケットの『名づけえぬもの』が引用され、俳優のモノローグとして語られる。
『名づけえぬもの』が挿入的に語られる場面は、原作では登場人物全員がピクニックに出かけた山小屋の場面である。主人レオンはこの山小屋で27年前に不倫した。一度限りの不倫の成功を心の支えに実直な銀行員の父親を27年間演じ続けてきたレオンは、今すべてをひっくり返すべく、家族、同居人、知人はもとより、山小屋に来る途中で偶然出会った見知らぬ僧も引き連れて山小屋に乗り込み、過去を告白して、良き父かつ夫といういわば仮面を脱ぎ捨てる、というのが小説のあらすじである。今回の舞台ではあらすじの描写はほとんどなかったため、あらすじ的な情報は客席にほとんど伝わらなかったと思うが、そうした情報がなくても、「ベルグ、ベルグム、ベンベルグ、(…)」と謎の言葉を発しながら、27年前の秘密を自ら暴露する「レオン」の演技は見ごたえがあった。
ここまで車椅子に座って演じ続けてきた「レオン」は、両足で立ちあがり、大柄の体格を見せつつ、不倫を告白した。実直な父かつ夫という役柄をついに放棄したこの男は、ようやく自分に目覚めて崩壊したのかもしれない。
上演中舞台後方にはつねにポーランド語が投影されており、単語が映し出されるたびに上から下へ流れ落ちるように映像化されている。流れ落ちる単語の群れは「レオン」の崩壊を表しているように思えた。
3.俳優たち
五人の俳優は、外れたイントネーションや奇妙なアクセントで文章や単語を発語しながら、ゆっくり動く。五人の動作と発声には独特のクセがあり、せりふ劇の俳優の動きではない。一人ひとりが独自の動きを極めているとともに、総体としても一つのまとまりをなし、重心の上下動や左右の動きで五人の所作がリンクすることも多い。また、指先の動きにいたるまで、五人の細かい身体の動きが相互に共振する瞬間も見逃せない。こうした俳優たちの独特な動きの連鎖を目の前にして、観客一人ひとりも、それぞれ「現実を構成するためのある意識の努力」を続けたことだろう。その努力が最終的に一つの意味に収斂することはないが、それゆえに探究と発見の喜びは尽きないと感じた。
こうして1時間強の公演中、小説とは異なる稀有な時間を体験した。